物事を正しく伝えるためには、多彩な言葉を用い、長い文章で難しく表現する必要がある。代表的なものは、論文や書籍だ。
だが、これには問題がある。一定数の人間が「長文が読めない病」を患っているため、そういった文章では、結果的に何かを伝えることができないのだ。
これの解決策が「文を短くする」というものだ。代表的なのが『X』の140文字だろう。作文用紙の半分に満たない文字数にまとめることで、その病の影響を回避できる。単純さと理解のし易さは比例する。
しかし、これはこれで問題がある。単純化することで、誤解が生じないよう正確に伝えることができなくなるのだ。
各種ニュースサイトが、スマホの通知バーに収まる文字数で見出しを作ろうとするあまり、ニュースを過剰に単純化してしまい、実際の内容と全くかけ離れた過激な見出し文で通知してしまうようなものだ。(これは一種の客寄せ作戦ともいえるが…)
単純化の完成系は『2択』だ。だがしかし、世の中には、マルかバツか、ハイかイイエかでは答えられない問題が多くある。多くというか、ほぼ全てがそうだ。
【給料が高い仕事に就きたいか?】を2択で答えられるか?それは無理だろう。なぜなら、ほぼ全ての人間が『給料が高くてもそれに見合わない激務なら嫌だ』という答えをするからだ。条件分岐は無数に増やせる。家から近いか、リモートワークができるか、転勤があるか、休日日数はどうかなどなど…
正しく意思疎通を図るためには、文字数が必要だ。(もちろん、いたずらに文字数を増やすのは下手くそのやることだが)
世の中の情報を正しく認識するためには、長い文章を読めなくてはならない。単純化されていない、複雑な分岐、パターンを把握し、広く、深く理解しなければならない。
こうとも言える。読書のできない人間に権限を与えてはならない。間違いなく、不適切な決断を下すからだ。
例えばだ、ほんの数秒のネット広告を見て選挙の投票先を決めるような人に、その候補者や政党の主義主張を正しく認識できていると思うか?断言するが、間違いなく無理だ。
世界が発展してきたのは、文字があったからだ。正しく認識できる文字が残されていたからこそ、文化、文明を正しく受け継ぐことができた。だからこそ、今この令和の時代にまで世界が続いている。
その文字、その文章が読めないということは、文明に逆行するということだ。読み書きと読書、これができない大人になってはいけない。
また、文章が読めないレベルの国語力のくせに、何かを後の世代に残すようなことはしてはいけない。それは間違いなく誤解を招くから。理解の幅、解釈の幅を広げるような情報の残し方は、後で必ず争いを生むから。
単純化された、一見わかりやすい情報に飛びつく習慣を改めなさい。それが許されるのは幼児だけだ。
複雑な情報を処理できないなら、学びなさい。その言葉、その表現の意味をひとつずつ調べ上げ、全文を正しく理解できるよう学びなさい。
それが、物事を決断する大人の責務というものだ。それができないなら、大人ぶるのをやめなさい。
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