責任とはなんなのか、たまに考える。
※なお、これは今のわたしの考えであり、時間とともに変化するかもしれない。また、社会共通の答えではないし、押し付けるものでもない。そして、議論するつもりはない。
責任とは、結果に伴う褒美と罰のことであり、その重さ(大きさ)とは、その振れ幅の広さである。また、責任を取るとは、褒美もしくは罰を受け止めることである。
そして、責任とは、自ら持つものではなく、他から与えられるものである。だが、自らの立場によっては、与えるものにもなる。
振れ幅が適切なバランスを取れていない場合、それは不適切な責任である。例えば何かの仕事について、それに失敗したら処分を受けるが、成功したところで何も評価を貰えないなどが挙げられる。このような、片一方にのみ振れ幅が存在するものは、適切な責任と言えない。
大したことない仕事を任される人には、その会社における平均以下の給料が支払われる。そういう人は、仮に仕事に失敗したとしても少し怒られるくらいで済む。
だが、(表現は変だが)大したことある仕事をする人はそうはいかない。平均以上の給料という褒美を与えられるが、失敗した時は怒られるじゃ済まない。
褒美と罰のバランスが重要だ。そしてそのバランスは、自らと社会とを広く比較することで見えてくる。
不適切な責任を与えられているのなら、その環境を変えるか、脱するべきだ。褒美を多く与えられる方向にズレているならまだしも、罰が大きくなる方向なら最悪である。
責任と責任「感」は違う。責任感とは、自らが自らに課すものである。自分の選択の結果を受け入れる覚悟ともいえる。
責任と自由はセットで語られる。やりたいことを自由にやった結果、幸福や快楽という褒美を得るかもしれないし、痛い目という罰を受けるかもしれない。責任感を持つとは、選択の結果から逃げないこと。他人のせいにすることなく、自らで受け止める覚悟のことだ。
似たような言葉として「責務」がある。これは、与えられた責任の振れ幅を決定づけるためにやること、だ。
端的に言えば、これを無事果たすことで褒美が得られ、失敗したり放棄したりすることで罰が与えられる。
いわば責務とは「責任判定ミッション」だ。責務のこなし具合により、褒美100か、それとも罰100か。もしかしたら褒美70くらいになるかもしれない。
責任、責任感、責務。たまに考えるが、いつもバリっとした答えは出ない。抽象的だ。でも、こんな感じなのだろう。その人ごとに、自分なりの解釈を持ち続けることが重要なのだろう。
わたしに与えられている責任は適切だろうか。責任感を持って責務を果たしているだろうか。時折立ち止まり、自己を顧みていきたい。
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